朝、私は作業をしていました
人が来たので、手を動かしたまま「おはようございます」と言いました。
私の中では、挨拶とは「決まったセリフを言い合うイベント」でした。だから、それで挨拶をしたことになっていました。
けれど、その挨拶は、感じの悪い態度として受け取られていたようです。今なら、そう見えた理由も少し分かります。
作業を止めず、声だけを出したことが関係していたのかもしれません。ただ、相手が私のどこを見てそう感じたのかは、正確には分かりません。
少なくとも、私は挨拶の言葉を出していました。その一方で、態度まで含めると、私が意図した形では届かなかったようです。
同じ一場面の中で、この二つが同時に起きていました。
私がしたことと、相手に見えたもの
私の側から見れば、起きたことは単純です。
相手に気づき、「おはようございます」という言葉を出しました。無視しようとしたわけでも、嫌な態度を取ろうとしたわけでもありません。
一方で、相手から見えるのは、私の意図そのものではありません。
作業の手は止まらず、その状態で声だけが聞こえた。
外から見えた動きだけなら、たしかに私が考えていた「挨拶」とは違って見えた可能性があります。
ここでずれていたのは、言葉を言ったかどうかではなかったのだと思います。
どこまでそろえば「ちゃんと挨拶をした」ように見えるのか。その条件が、私と相手とで違っていた可能性があります。
私は、挨拶のやり方をまったく知らなかったわけではありません。それでも、「挨拶」という言葉を「決まった言葉を交わすこと」として覚えると、そこに一緒に含まれていた動作やタイミングが、私の理解から抜け落ちることがありました。
その抜け落ちた部分も、受け取り方の違いに関係したのかもしれません。
挨拶は、セリフだけのイベントではなかった
「おはようございます」は短い言葉です。
でも、日常の中では、その短い言葉に多くの条件がついているように感じます。
顔を上げること。相手の方を向くこと。作業を少し止めること。声の調子や、言うタイミングを合わせること。
言葉としては同じでも、それらがそろっていなければ、感じのよい挨拶として受け取られないことがあります。
私には、「おはようございます」と言うことと、顔を上げて体を向けることを同時に意識するのに、労力がかかります。
私の中では言葉を出した時点で終わっていた行為が、相手には、言葉以外の部分まで含めて別の態度に見えたのかもしれません。
私は以前、挨拶の意味を「何を言うか」という説明から理解しようとしていました。
けれど実際には、いつ人が顔を上げるのか、会釈だけで済ませるのはどんなときか、作業中にはどうするのかといった、場面の中で起きていることも大切でした。
その見方は、今の私の挨拶の仕方にもつながっています。
私は、言葉を出すことだけを最優先にしなくなった
誤解を減らすために、私も工夫してきました。
ただ、今の私は「まず挨拶の言葉を出すこと」を、最優先にはしていません。
まず言葉を出そうと意識しすぎると、私にはかえって手順が増え、相手の様子や場面を見る余裕がなくなることがあったからです。
挨拶をするときには、手を止め、少し体を相手へ向けることがあります。言葉を発しなくても、会釈だけで挨拶する場面もあります。
なぜここでは会釈だけなのか。なぜここでは言葉も添えるのか。周りの人がどんな場面で、どんなふうに挨拶しているのかを見ることは、私には役に立ってきた気がします。
これは、挨拶をしない方がよいという話ではありません。
言うべきセリフを先に固定するよりも、その場で何が交わされているのかを見る方が、私には挨拶を理解しやすかった、という話です。
伝わる形へ整えるにも、負担がある
場面を見るようになれば、すべて自然にできるわけではありません。
一つひとつの動作は小さく見えます。
それでも私にとっては、作業の手を止め、体の向きと声をそろえるという、いくつものことを同時にしています。
習慣にすることで楽になる部分はあります。それでも、言葉以外の条件を意識してそろえる負担まで、なくなるわけではありません。
私が気になるのは、工夫がうまく働いたときほど、その調整が外から見えにくくなることです。
見えるのは「普通に挨拶できた」という結果です。
その結果だけを見れば、そこまでに何を見て、何を選んだのかは、最初から存在しなかったように見えるかもしれません。
相手が感じたことも、私の意図も消さない
私が「悪気はなかった」と言えば、相手が感じた違和感まで消えるわけではありません。
相手がそう感じたこと自体を、なかったことにはできません。
一方で、感じが悪く見えたことだけから、私が相手を無視したかった、嫌っていた、挨拶する気がなかった、とまでは決められません。
私は、どちらか一方を正解にする必要はないと思っています。
私は挨拶をしたつもりだった。
相手には、私が意図した態度としては届かなかった。
まず、この二つを同時に置くことができます。
そのうえで、二人の間でどの条件が共有されていなかったのか、何が受け取り方の違いに関係したのかを、分かる範囲で確かめていければと思います。
私も、できる範囲で伝わる形を探します。
相手にも、違和感を覚えたことから私の意図までを一度に決めず、分からない部分を残してもらえたら助かります。
挨拶は、言った人の意図だけで形が決まるものではありません。
それなら、受け取り方がずれたときの調整も、言った人だけの仕事ではないはずです。
私にとって挨拶を知ることは、言うべき言葉を増やすことだけではありませんでした。
その場で何が交わされているのかを、少しずつ知っていくことだったのかもしれません。
関連情報
Payne-Allen and Pfeifer(2022)は、英国とスペインで観察した非言語的な挨拶について、身体に積極的に耳を傾けて洞察を得る傾向を表すBody Listeningと、観察者が評定した挨拶動作の巧みさとの間に、強い正の相関を報告しています(Spearmanの順位相関係数 rs = .768、p < .001、N = 20)。
著者は考察で、Body Listeningの得点が高い人は身体感覚から動作を調整し、得点が低い人は身体的な手がかりを逃して、状況の頭内地図(mental mappings)に頼る可能性を述べています。
ただし、これは小規模な相関研究です。因果関係や具体的な処理経路、私の体験を直接確かめたものではなく、挨拶動作の巧みさについての評定者間一致も高くありませんでした(ICC = .46)。
- Payne-Allen, K. J., & Pfeifer, G. (2022). The role of exteroceptive and interoceptive awareness in executing socially relevant bodily actions: A naturalistic investigation of greeting behaviour in the UK and Spain. Journal of Social and Personal Relationships, 39(11), 3506–3531.